日本語が終わる理由(となりうるもの)

これだけ社会が情報化された後で日本人、というか日本語話者が減ることは、恐ろしい帰結を引き起こすのではないか。私は危惧している。あるソフトウェアが特定の言語に対するサポートを行うかどうかは、その言語を使用する利用者数、ひいてはその言語を提供することによって得られる利益によって判断される。ということは、日本語話者の数が減り、さらに彼らの購買力が低下すれば、必然的に日本語をサポートする動機は失われるということである。2024年現在において、多くの人はMS-IME、Appleの日本語入力プログラム、Google日本語入力もしくはGBoard、この3つのうちいずれかを使っていることだろう。これらはアメリカ資本の企業によって開発されている。上述した理由で、いつかは日本語がサポートされなくなる、もしくは、使えるにしても到底実用的ではないほどに品質や体験が低下するリスクがある。日本国内企業による製品もATOKかわせみなどの例があるが、そのような状況下で、メインストリームへ躍り出るような体力、政治力があるかは未知数だ。FLOSSはというと、mozcは実質的にGoogleによる開発だし、Redhatのlibkkcは実質的に終了している模様。最後に残ったのはanthyで、しかしこれもDebianFedoraで別々にメンテナンスされ、更新頻度も低い。さて、US-basedの巨大企業が日本語を見捨てた時、日本は果たして日本語を維持できるのだろうか。公的プロジェクトで日本語サポートを開発する? それを実現できる技術を持った企業が果たして日本に存在しているだろうか。それが無理だと分かったなら、いや、無理である必要すらない、経済的に不合理だと判断されたなら。ローマンアルファベットによる日本語表記が一般化、あるいは日本語自体が消滅する――のかもしれない。

(だが、SKKは死滅していなかった!)

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