最近

なんか最近、生きててできること全部やっちゃったなあって気がする。川沿いのサイクリングロードを走った夕焼けを不意に思い出して、これは永遠ではないと急に怖くなる。あの体験ができる期間も限られているのだ。

今考えてみると、私は人生で楽しめることをすべてやり尽くしたのだってわかる。私が得る資格のあるものは既にすべて手に入れた。これ以上を得ることは決してない。多分今が一番良くてこれから先は暗闇へと続く下り坂だ。人生がどんどん詰んでいく。都合のいいことは起こらない。私はもう手遅れだ。本当の願いを認識できず、願いを叶えるための努力をしてこなかったため、願いが叶うことがなくなった。

自己評価がどうであれ、婚活や就職など分野を問わず、年齢によって市場評価は大きく下がる。閾値を超えた後で成功するのは特別な性質を持った特殊例だ。周囲を見渡せば、適切な行動を取れること、試すこと、行動することすら特殊例のうちであることが見て取れる。“Life is unfair, get used to it.”とも言うではないか。人生というゲームは配られた手札で戦うしかないのである。

ましてや現状を見よ。他の人よりはるかに劣位にある。私はすでに他人から期待され与えられたチャンスを棒に振った過去の実績がある。行動する計画や願望を保ちながら行動してこなかったことを毎週繰り返している。思いっきりやった経験のない人間が思いっきりできるわけがない。まだ実力出してないだけと言う人はその出していない状態が実力なのだ。自分が特別だと思うのは思い上がりだし、自分にとって都合のいいことが起こるというのは烏滸がましい。いうなれば私は負の側にいる特殊例なのだ。

私は、どこへでも行ける人物になりたかった。単に物理的に移動できる、旅行できるということではない。ポータブルなスキルを持ち、その時その時で良い場所、良い住居、良い職場、良い国へ移っていけることに憧れていた。でも現実はこれだ。まるで私はラピュタの住人だ。地面を離れて生きいくことはできないのだ。平均的な人物は歳を取れば保守的になる。それを見越して、伴侶を設け、家を買い、安定した職に就くか転職の選択肢を確保するように生きるべきだったのだ。皆はそのように振る舞っている。どこへでも行ける生き方に向いている人、それを心地いいと思う人というのは限られている。それを選んで幸せになれる人、それを実現できる人というのは、例外的な外れ値の人だけなのだ。私はそうではなかった。もう手遅れだ。私は人生を失敗した。取り返しはつかない。この数年で多くの選択肢が失われてしまった。可能性が完全にゼロでないとしても、うまくいく確率は低い。行動することで失敗しWLBや精神衛生が悪化するリスクも無視できない。期待値が低いなら行動しないほうがいい。そして現実的に、現状維持を含めて期待値が負の選択肢しか残っていないことは十分ありうる。その場合、どの選択肢を取っても悪くなることになる。

私は誰からも価値を見出されたことがない。本質的に価値があるなしの議論にかかわらず、取引実績がゼロだ、そして、市場参加者は貪欲であり利益を求めてあらゆる選択肢を探索している。どんなに隠されていたとしても、利益のもとになるものであるならば、必ず見つけ出される。 給与は椅子理論で決まっているのだから現在の市場評価ではない。採用側の過去の誤った判断による負債だ。私は解雇規制の強さを悪用してその既得権益の甘い蜜を吸っているだけにすぎない。パートナーシップは最も苛烈に個人の利害や好みが反映される。私をパートナーにして利益や喜び、満足、充足、幸福を得るものはいない。自分が相手の立場に立ったらどう思うかを考えれば想像がつく。

私が変わらないことを選択しているという指摘は、形式的に必ずそうだと言える。誰にも強制されておらず、「選択しなかったことも選択の一つであり、その責任が生じる」のだから、現状を作り上げたのは全ての選択または非選択によるものであり、私自身に関するあらゆる現状は私の選択の結果であり、私に責任がある。

私は、過去の実績から能力または思考体系によって変えることができない構成となっているのが変えられない原因であり、それが変更されない限り維持されると考えている。「何もしない」「変えられない」と考えていることは、ある種の自己強化的な思考の連鎖の中で成り立っているとして、それはそれから抜け出せると言うことを意味しない。自己強化的な思考のループはそれが望ましい望ましくないに関わらず安定する。

改善する、苦痛を軽減するためにも継続的な努力というコストが必要だ。それが市場の裁定であるならば不都合な真実であろうとも受け入れるしかない。そして社会とは巨大な単一市場だ。自己評価がどうであれ“Everything is worth what its purchaser will pay for it.”と言う原則に変わりはない。

ほら、今日も結局1日寝て過ごしてる。変えることはできていない。できていたら昨日も今日も外出している。そしてこれからもそうなる。そうならない理由が存在しないから。私は試さない。あるいは試す能力がない。どっちかはしらんが何もしないことだけは過去の実績から確度が高い。これは能力や思考の話であるから環境が変わっても改善しない。原因が存在し続ける限り、何もしないだろう。

私の「好奇心」は本物の好奇心ではない。もし本物であれば、それを探求しているはずだ。しかし、時間や資金などのリソースが多少なりともあるにもかかわらず、実際には何もしていない。それはつまり、私には好奇心も意志もないか、あるいは能力や意欲が不十分だということだ。活用する能力や強い欲求がなければ、どれだけのリソースがあっても無意味だ。手付かずのまま山積みになっている電子基板、測定器、教科書、ゲームの類がその証明だ。手をつけなかった理由はその能力がないか、真の好奇心ではなかったからだ。

私が自虐や自己否定で人を遠ざけたとしてもそのことで誰かが損をすることはない。得られたはずの利益を失うこともない。私と出会うはずだった誰かは私より良い代替の選択肢を得ることができる。私が多少の不満足に陥る程度のことであり、内心は他者に影響を及ぼさない。

これは当然の帰結であり、喜劇だ。嘲笑うべき愚か者の哀れな末路だ。こんなことを証明するのに5年間も必要ではなかった。

Posted by squeuei, licensed under CC BY 4.0 except where otherwise noted.