Locked-in Society

スマートフォンを隔年で更新しているので、例年通りなら今年に更新することになる。でも今使っているPixelに性能上の不満は感じていない。一方で、iPhoneへの乗り換えはここ一年ずっと考えてきたことだ。開発者が魅力を感じているのはAndroidではなく、iOSの生態系だと。あれだけcroutonで遊んだChromebookも、かつてほどの魅力を感じない。Linuxとしての利用ははるかに容易になったにもかかわらずだ。活動量計を選ぶ際にもう一度Fitbit製品を買う気にならなかったのも、GoogleがHardware部門を縮小する報道を目にしたためだ。最近、Googleのサービスや製品へ依存することリスクではないかと感じている。

私は自分自身をGoogle Mapsの情報修正に協力している方だととらえている。ローカルガイドのレベルを稼ぐためには口コミや写真を投稿するのが普通と思われるが、私はほぼすべてのポイントを情報の修正で賄っている。どこかの記事で読んだ「地図が2019年から更新されてない!」はさすがに言いがかりだ。それでも実際、都心部以外の更新ペースは鈍い。鈍いし、CGMらしくユーザの側で更新しても、反映されない。道を追加しても経路探索には現れない。大手チェーンの新店舗がいつまでたっても追加されない。追加した場所が、確かに承認されたのにも関わらず、闇へ葬り去られると、無気力に襲われる。

また、Google Mapsのクセとして、「建物の名称と店舗情報は別管理」というものがある。たとえば「〇〇マート××店」という店舗があったとする。その店舗が閉業して、空きテナントになっていたり、ほかの企業が入居していたとしても、その建物の名称として「〇〇マート××店」が残っているときがあるのだ。こういう時は、建物の本来の名前なんてわからないから修正しようにもどうすればいいかわからない。更に一点、日本の地図を表示すると、細かな道路にも名前が付けられていることに気づく。想像でしかないが、これは日本国外の住所表記の慣習に基づけば、Street Nameを基本とすることが自然だからだろう。結局、Googleからしたら「アメリカ――あるいは西洋に偏って分布するテック業界のエリートが住まう世界都市――以外のことは知ったことではない」と切り捨てられる側に私達はいるのだろう。

Googleからしてみたら、自社の利益となる広告事業、そこへ繋がること以外はどうでもいい、と考えるのは資本主義の社会において、ごくごく自然で、健全なことだ。物事は受益者負担で、その負担を広告で間接的に徴収するのだから、カネに繋がらないなら注力はしない、それが合理性だ。「広告が表示されるなんて地図じゃない!」と言い張ってみたところで「本来支払うべきものを払っていないのだから、その分の代償があって当然だ。タダ飯はない」と返されておしまいだ。

Googleはすべてを便利にした。でも昔から、強くコミットすることはしないから、簡単に投げ出すし、景気が悪くなればその度合いも加速していく。だから、物事が一気にばらばらになっていく。しかし、それが資本主義経済に生きるってことだ。店の側が儲かるほどの需要を提供できないならば、供給がされなくて当たり前。どんな経済でも市場原理からは逃げられない。誰もどうすることもできない、恨むならこの世界がこうあること自体を恨むしかない。それでも、乗り換えが実質的に不可能であるほどの履歴を抱え込んたうえで、提供されるサービスがデグレードしていくのは辛いものがある。様々なサービスや製品でユーザをロックインするだけしておいて、金にならなくなってきたら「やめます」「品質保証しません」という態度を取られ(得)ることを考えると、全ては空しいものだ。

ショッピングモールがつぶれたなら他の店が出店するかもしれない。でも全ての資産がそのモール内でしか使えないプリペイドカードの中にあったら?

アイデンティティを小さく保てと言ったのはポール・グレアムだったか。マジョリティでいることに固執したほうがいい。それで幸福になれるとは限らない。けど、不便や不幸を遠ざけてくれる。お金と一緒だ。それでも、どこか一つのシステムへ寄りかからずに、分散させて生きることなんて、果たして現代で可能なのだろうか?

Posted by squeuei, licensed under CC BY 4.0 except where otherwise noted.