落ちる摩天楼

私の中での都会の定義は大きな電気屋と大きな書店があることで、世の中の人の定義とはだいぶ違うとは思うけど、私の中では十分通用するものだった。だった、というのは、それが過去形になりつつあるからである。久しぶりに大きな書店へと寄ったけど、たいして眺めることもしなかった。最近の書籍はKindleで買っているし、雑誌は小さい書店でも眺めることができる。電気店も同じだ。現物を見るまでもなく、通販を使えばあっという間に家まで届く。これはいいことだろうか、どこに住んでもそこが都になる、いい時代が来たということだろうか。そうではない。これは私の興味を向ける範囲が狭まっていることの表れだ。インターネットを介した買い物は、目的のものへ一直線に到達することは得意だが、興味を広げるという方面には不向きだ。そんな中でも十分だと感じてしまうくらいに、自分の視野が劣化したのだ。読むべき本はすでにたくさん部屋や端末の中にあるというのに、なぜ読まないのか。買ってからたいして使ってない情報端末が一体いくつあるのか。そういう罪が、私を糾弾する。私は積み深い人間だ。

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