これができる頃私は生きていないだろう

最近は行く用事も少なくなった新宿へ久々に足を運んだ。明治安田生命新宿ビルがなくなったこと、JRの東西自由通路ができたことくらいは把握していたし、そうなってから足を運んだこともある。でも、小田急百貨店の本館が跡形もなくなり、東口のルミネエストがよく見えるようになった姿に衝撃を受けた。この衝撃はジュンク堂書店の新宿本店が無くなり、新宿三越アルコットがビックロになったときより、タイムズスクエアの紀伊国屋書店新宿南館がニトリに変わった時よりも、大きなものだった。この文書は家に帰ってから書いているが、今でも小田急百貨店には伊東屋があるような気がしているし、おもちゃ売り場には幼い頃の憧れだった鉄道模型コーナーがあるような気がしている。その気になればまた訪れることができるように感じているが、現実にはどちらもすでに存在しない。なんなら、新宿駅西口に入る出入り口すらもう取り壊されて存在しない。小田急地上改札へ続く経路に今あるのは、簡素な仮設の建屋にすぎない。

跡地にはこれまた取り壊される新宿ミロードの敷地を含めた再開発ビルが建つのだという。その記事を読んで私は「これが完成する頃に私は生きていないのだろう」と思った。最近はさまざまな事物に対して、そう思うことが増えた。いくらこの国が衰退の途上にあるとはいえ、まだ完成していない開発や新線はいくつか存在する。しかし、それらの完成が私の生きている間に見られるとは思えなくなった。自分が生きている間に見られないもの、恩恵を受けられないものに関心を向けて、一体何になるんだろうと、やけくそじみた気持ちにもなる。これが自分に子供がいれば、「この子が大人になる頃には」といった形で自分と結びつけることも叶うのかもしれない——それが健全なことであるかどうかはさておき。でも現実には私には子供がおらず、なんならパートナーすら存在しない。パートナーシップを構築できる見込みもない。老人は過去のことばかり振り返ると世間でよく言われるが、自分がそれに触れることができないと思ってしまったら、自分の老いが怖くて、興味関心を向け続けることに耐えられないのかもしれない、最近はそう考え始めている。

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