Silence is the Golden Path
YouTubeを見ても、家族連れやカップルばかりの外を出歩いても、「男性は劣っている」「男性は能力以上に優遇されている」「女性は脅かされている」「結婚できない人間は彼ら自身が劣っているからそうなっている」「日本人は愚かだ」「日本は負けている」「日本は衰退する」「中国はすごい」「中国製品はすごい」ばかり流れてくるTwitterを見ても、それとは正反対なリベラル的価値観ばかりが流れてくるBskyを見ても、どれをしても気分が塞ぐ。批判が刺さるということは、私もまた差別的で愚かな反知性主義側の人間なのだろう。効いてる効いてる。そして、基底現実でなにかやっててインターネット(を見ずにいると自由になった気がするけど、しかしそれはそこに流れてくるような不平不満、つまり私達の社会の問題から目を背けて独善的な愉しみに耽溺していることにほかならない。
人々の利害とは対立するものだから大規模汎用SNSはPvPの戦場にしかなりえないということを、積極的にせよ、消極的にせよ、人々は認めざるを得ない段階へ到達したように思う。老若男女、みな自身のアイデンティティに基づいて利害対立をしている。万人の万人に対する政治闘争だ。個人的なことは政治的なこと。Not all menに対するYesAllWomen。もちろん対立軸はこれ以外にも無数に存在すると前置きして、性別年齢の四象限のうち、自分の所属するアイデンティティ以外は敵対者として徹底抗戦する。自らの有形無形の利益のために。社会に迷惑がかかるからでは黙らない、社会運動はそうやって進んできたし、いかに自分たちオルグし、結束させるか、いかに相手を分断し各個撃破できるかによって勝敗は決まってきた。それでも、利害の対立は、隠されたままでいるよりも、顕在化した方が良いと人は言うだろう。火のないところに煙は立たない。アルゴリズムが発達しようとも無から有を生み出すことはできない。一般化された主張は、それが一定の支持を受けた時点で、相応程度の一般性、普遍性を持つことが示される。普遍的な怒り、憎しみ、不満。とてもそうとは思えない、それが信じられないのなら、きっとあなたはすごくいい人生を送れているのだろう。
ある出来事について、それって単なる消費者問題なんじゃない? とか、思うことあれど、しかし定義上正義は向こう側にあり、こちら側にはないのだから、何も言わないことこそが正解であり、護身となるのだろう。社会正義とは人文学や社会科学を修めたものにしか見極めることができないのだから。何度も同じことを繰り返すのは馬鹿らしい、過去トラをよく研究せよ。不快な表現をすることは自由で、その表現を徹底的に叩く表現もまた自由。萎縮しても構わない下等な存在と、萎縮することがあってはならない上等な存在とがあるわけだ。銃口を向ける先ははたしてほんとうにそっちでいいのかと問うてみたところで、「敵を増やすな、などという言葉で怒りを抑圧するな」と返されてしまうだろう。まあだから、結局のところ私は、現代の倫理観や法令遵守の精神に対して心の底から内面化、適応できてはいないということなのだろう。あの曲の歌詞も、冷笑だ、生活保守だ、社会問題に目を向けろと怒られうるのかもしれない。あの曲も危うい表現としてみなされるかもしれない。素晴らしさは正しくなさを免罪しないと言われるのだろう。被害妄想? たぶんね。でも、そうやってあらゆる事柄にワンクッション置いて相対化するのは、現代社会において推奨される適応的なふるまいでもある。客観的に、心動かされないように。そう考えると、エモいことってマインドフルネスの反対側にあるのかも。ちゃんと常に考えて行動すればハラスメントも加害も犯罪も不合意も起こらない。少なくとも社会はそのような合意の下で動いているだろう。
かつて私たちの夢だったものは、きっとどこかしらにはつながっているんだろう。それでも、こんなはずじゃなかったと思うことはある。失われたもの、そうなってほしくなかったのにそうなってしまったものを多く見すぎてしまった。うまくいかなかった、いや、うまくいかせようともしなかったのだ、私に限って言えば。そして、世の中の物事は私の願望や感傷になんてかまわず、経済的合理性を追求して動いていく。
取り返しはつかず、できなかったことばかりが積み上がり、その後悔だけがこれからの人生でずっと続く。満たされることはない。今はもうその機会を逃してしまった後だ。これから先は後悔ばかりの人生。