「一生モノ」というコトバ

私は、高級ブランドを扱う記事でよく目にする 「一生モノ」 という表現を好ましいものだとは思わない。

腕時計に関して言えば、機械式のムーブメントを搭載していたとしても修理の際にはASSYで交換されることが多い。内部の部品単位で修理されるのは、それこそ自動車に匹敵するような価格帯に到達してからだろう。しかもその修理には並みの腕時計が何本も買えるような金額がかかり、そうでなくとも定期的にオーバーホールが必要だ。

擁護する理屈を考えてみよう。汎用的に使われている機械式ムーブメントを採用している時計ならば、市場に流通している互換品を含むムーブメントへ換装することで、外観を保ったまま使い続けることができる、これを称して 「一生モノ」 ということはできるだろう。これはこれで有効な戦略だ。だがそれは本当に皆が望んでいることそのものなのか?

……わかってる。これは例の「情報を食べている」ってやつだ。みんなが情報を食べて満足してる中で、ひとり的外れなマジレスをして一体何になるというんだ?

私はむしろ、 「一生モノ」 を自分の手が台無しにしてしまうことを恐れているのかもしれない。自分が 「一生モノ」 に飽きてしまうことはないか? 自分の扱いが悪いせいで 「一生モノ」 だったはずのそれを使い物にならなくしてしまわないか? 自分の意志が 「一生モノ」 でないのに、どうして自分の外にそれを求めることができるだろうか。

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