自分の人生に責任を持て
自分の人生がどうなろうと、それは自分の選択の結果だ。何が正しいのかわからない。結果が不確実で予測できない。そんなのは誰にとっても同じだ。責任を回避することはどうやってもできない。選ばないことはできない。行動をしないという選択をしただけだ。どうあっても責任を背負わされるのだから、一番いい選択をするしかない。それが失敗したとしても「それ以上のことはできなかった」と思えるくらいの最善の選択をしていくしかない。それができている人が、仕事で成功したり、趣味に没頭できたり、家庭や交際、友人関係で幸福になれたりするのだと思う。そしてその能力は、「うまくできないことでも楽しんで続けることができる」のような資質と深く結びついているように思う。実際、そのような発言をしている成功者は多い。
私は常々人生は仕事と趣味と人間関係によって成り立っていると考えている。仕事はうまくいっていない。所属の先行きは暗く、転職ができるほどの能力やスキル、経験を有していない。趣味にも没頭できるような人間ではなかった。私はかつて仕事はそこそこに趣味に没頭する人間になりたかった。でも、年を経てわかったのは、私にはやりたいことなんて本当は何もなかったということだ。金と時間というリソースがいくらあっても、本人にやる気がないのでは全くの無意味、無価値だ。そして私は、独り身だ。それが解消されることもないだろう。私の人格が悪いことが原因だからだ。
少数の資質――前述したものに限らず、たとえば「完成像を最初からイメージすることができる」、「やりたいと思ったことをすぐ実行できる」「やりたいことに障壁があったとしても、そこであきらめるのではなく、一つずつ解消していく取り組みができる」など――を持っている人が、どんな領域でも成功できるのではないかという仮説を私は持っている。ひとつのことをうまくやれる人はほかのこともたいていはうまくできる――あるいはできるようになれる――し、そうでない人間はなにもできない、できるようにならない、ということ。
私はうまくやれない側の人間だろう。周囲から多大なリソースを投じられ、それを何の躊躇もなく蕩尽してきたにもかかわらずこのざまである。私は、上の世代の周囲の人間から見たら何もない人間だ。何も知らない、何もわからない、何もできない人間だと、その振る舞いを見ているだけで痛感する。自分が一番それをよくわかる。
“もののけ姫”劇中のセリフを思い出す。
モロ、わしの一族を見ろ。みんな小さくバカになりつつある。このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう。