Saturday Night Downer
土曜の夜から月曜日からの仕事について考えて憂鬱になっていた。昼になっても何もする気になれないのだろう。でも、憂鬱でなければ仕事じゃないから。
憂鬱だ。明日が来ないでほしい。人生が続かないでほしい。そう思うことを何度繰り返しているのだろう。一つが終わっても直列に、あるいは時に並列に、これから先に降ってくる数々のイベントを思うととても気が重い。でもほかの人よりも負荷は低いから。ほかの人はもっときつい苦難に耐えているから。インフレ、不況、気候変動、天災、どんどんひどく厳しくなっていく世界からさっさとオサラバする、その逸失利益はたかが知れている。これまでの孤独や苦痛も、利点と欠点は表裏一体だってこと。疲れている時の判断が信頼できない? なら、疲れやすい人間、現代社会の標準的な労働に耐えられるよう鍛えてこなかった人間は、常に信頼できない判断しかできない無能力者ということになる。
治療が存在すること、治療を受けられることは、治療に効果があることも、治療を受けるべきであることも、治療するほうがいいことも、生きられることも、生きたほうがいいことも、生きるべきであることも、その一つですら、導かない。治療を受けて改善したとして、それでなんの利点がある? なぜ治療後の状態が良いとされるのか? 治療における改善とはどのようにして定義されるのか。そもそも病気と健康の定義はなんだ。どれもこれも恣意的ではないか。人を死に向かわしめる老化はなぜ病気ではないのか。なぜ死に向かわしめる状態を脱することが善とされるのか。
生きていてもいいことはそれほど見込めない一方で、悪いことはいくつか見込まれている。どんなことも、積み重なったとて、「生きるに足る」と思えるほどのことにはならない。痛み止めを飲み続ければ痛くない、だからそれが生きる理由になる、なんて到底おかしな話じゃないか。今後起こりうるポジティブなライフイベントの具体例を列挙できない。でもたとえば病気や事故、災害は明確な負のライフイベントだし、誰にとっても起こりうるものだ。そして重病や怪我、被災は生涯でほとんど確実に起こる。それに匹敵するような正のライフイベントが、今さら起こるとは言い難い。恋愛も結婚も子育ても起こらないし家を建てることもない。宝くじに当たることもないだろう。でも、反対側のイベントはそうじゃない。いつだって起こる。
こうやって休みはただ過ぎていくし、日々のあれこれは憂鬱でしかありえないし、誰かに愛される魅力も価値も理由も意味もない。そして今私がいるここが被災地でなかったことはただの偶然に過ぎず、生活はいつだって突然に無へ帰しうる。認知を再構成しようが現実は変わらない。心地よい噓偽りを信じることは、真実を受け入れることより正当化できるだろうか(いや、ない)。
結局はいつまでも満たされず、満たされたとしてそれは大したことなく、一時的で、そして苦しみはいつまでも生まれ続ける。利益はコストに見合わない。 こんな生活を、こんな人生を続けて一体何になるんだろう。どんな嬉しさがあるというのだろう。それは苦痛に見合うものになりうるとどうして言えるのだろう。こんなふうにケチをつけてばかりの人間が、どうして充足されうると思えるだろう。
生きている間にすれば暇つぶし程度にはなるが、それのために生きるというほどでもない、できることなら生きていなくなるほうが断然いい、ということが多すぎる。それは私にとってそこまでの価値を見いだせるものではない。やり直しが効くことは、やり直しに意味や価値がある時にだけ優れている。そして当然、そうでないこともある。
生きていた方がいい理由なんて神様にでもでっちあげさせればいい。でも、私はごめんだ。