太陽のまっただなかに
知人友人たちが幸せな家庭生活を送っている様子を見聞きする機会が増えている。年齢から言ってそれは順当なことだ。私が、自転車でちょっと遠出したとか、部屋を片付けただとか、そういう些細な「まあよくできた」みたいな自己満足を抱いた直後にそんな話を聞けば、私のやってることなんて取るに足らない、瓶のふたや糸くずみたいなものだといやでも思い知らされる。私はそれを聞いて嫉妬でおかしくなるが、そもそも、私が幸せな家庭生活を送っていない、そもそも家庭を築けてさえいないのは、私が誰かにとって生計を一にするに足るだけの価値や魅力や能力がないからであり、そもそもその嫉妬が逆上に近いのであり不当だ。
それでも、「自分にはその価値や権利があるにも関わらず、不当に奪われている」なんて勘違いする人間になるよりは、少なくとも資本主義や自由経済の観点では正しいといえる「何かを得られないのは相応の価値や能力を提供できないからだ」と思うほうがはるかにましだろう。自己価値がどうだろうと、社会で評価されなければどうしようもない。人は一人で生きてるものではない。家庭はもっとそうだ。社会で評価されない人間は家庭を持てない。あたりまえだ。家庭は二人以上で築くものだから。そして社会の評価は貢献や能力や成果で決まる。社会からの評価は、その構成員の評価の集積だから、内心の自由を絶対とするならば、これを制御することは不可能だし、許されない。
家庭を築くことだけが幸せじゃないといったところで、凡人に実現できる幸せの形なんていくつある? マジョリティでいることの利益は覆しがたい。当人が望んでいる以上は、それがかなわないことはどうやっても苦痛だろうが。当人にとって相応しくない幸せをあきらめて、最終的には「生きてるんだから幸せだ」まで縮退させるのか? なんて、言ったところで詮なきことだ。彼らには私のような人間をどうにかする義理や義務があるわけでもないし、そこから利益も得られない。得られるならそうしているはずだ、まさに投資家がそうするように。何よりも、彼らだって解決策を持っているわけじゃない。
生きていて誰の役にも立たずに、当人も幸せになれないのであれば、その当人にとって生きていることを選択する主観的な理由は存在しない。いやまあ、憲法で義務とされている、納税や社会保障や勤労の形で役に立っているかもしれないが、そういわれてうれしい人がどれだけいるだろう。また、過去の記事で書いた通りに、税金は云百万の年収がなければ、再分配を受ける側なのだから、納税の観点ですら役に立ってもいない。
これからオートバイに乗って峠道で壁や崖に突っ込む方が幸せな人生なんじゃないか?