ブロックというアーキテクチャ
2017年頃の私はこんなことをSNSに書いていた。
SNSにおいて、ある相手とのコミュニケーションを拒否するために用意されている手段が、相手に一切の反論を許さず実行可能なブロックであるということは、悪い設計であるというか、世界の分断を促進するアーキテクチャなのではという気がしてきた。見たくないコンテンツを遮断できるという設計はエンタメにおいて妥当だと思うけど、それを実社会との結びつきが色濃くなりつつあるSNSで実装すると、ブロックすればするほど相手に反論を許さず意見を封殺できる機会が増えることになる。SNSにおいて各アカウントはコンテンツであるが、同時に社会の人間関係でもあり、コンテンツを切って捨てるのと同じように、人間関係を切り捨てる権力を与えたら、人はどうなるのか。
また、2019年頃の私はこのようなことをSNSに書いていた。
SNSのブロックという概念が、嫌なものを排除すれば快適で、かつ自分にその権限が与えられているという信念を与えているのかもしれない
それからどうなっただろう。ブロックというアーキテクチャは人々の世界観における前提となった。そのうえで、アルゴリズムや推薦によるタコツボ化が促進された。ビュー数やインプレッションが更に効率よく収益へ直結するようになった。広告やアフィリエイトを通じたマネタイズ圧が高まった。気に入らないものを理論付けしたうえで排除する政治闘争が度々起きた。キャンセルカルチャーとアイデンティティの政治が世の中に浸透した。これこそ前提、事実の認識でさえを共有できない相手とは議論せずブロックする世界であり、ポジショントークしかできなくなった世界だろう。
私が確かに上述したようなことを書いていた、考えていたという証拠は示せないし、あるいは示せたとしても誰もが到達可能な凡庸な発想でしかないというのはそうだろう。それでも、この先に生きていて明るい兆しがあるようには、どうしても思えないのだ。たとえそれが“Factfulness”に反するとしてもだ。