私はプログラミングに興味を持ったことが本当は一度もなかった。私はオタクになれなかった。

先日の記事で書いた通り、このブログは、JekyllでmarkdownをhtmlにしてGithub Pagesで公開する過程をGithub Actionsで自動化している。私はただレポジトリへmarkdownをpushするだけでいい。記事を書いてからもブログのテーマへ細かな変更を重ねてきた。装飾を変えて可読性を上げたり、listまわりのマージンを調整したりといった些細な事ばかりだ。昨日は記事のパーマリンクの構成を変更して、年月日をURLへ含めるようにした。同時に、jekyll-redirect-fromを導入して、過去の記事は公開当時のURLでアクセスできる状態を維持している(恥ずかしいtypoが複数あったことはさておき)。まあ、全部ひっくるめて言えば、いわゆる 盆栽 だ。

そして、その 盆栽 を続けていくなかで気づいたことがある。それは私が、パソコンをカタカタしているのが好きなだけの人間であって、プログラミングができるわけでも、プログラムが好きなわけでもなく、もっといえばプログラミングに興味さえ持っていない、ということ――

私はオタクになれなかった人間だ。オタクとは能動的で、創造する、行動する、主体的に発信する存在だ。私は趣味に生きる人間になりたかったということは以前書いた。その意味で私は落伍者そのものだ。このために生きているという何かが欲しかった。本当は欲しがるのではなく、作るべきだったのだ。何かを選んでコミットすべきだったのだ。それが読書であれ、写真であれ、音楽であれ、旅行であれ、運転であれ、プログラミングであれ、小説であれ、イラストレーションであれ、だ。下手くそだということは言い訳にならない。下手くそでも楽しめる人こそが上達するし、成功できるのだ。

私自身がどう思おうと、自認がどうであれ、私という人間の行動を外から客観的に観察して、その結果から判断すれば、結論は変わらない。そして、ある人物を測る際には、行動こそが全てだ。どんな理由があろうとも、結局やらなかったってことは、所詮その程度の気持ちだったってことなのだ。やりたい人なら、たとえどんな理由があっても、やっているものだ。最近はみんな「一発逆転なんてあるわけないし、それを狙うようなやつはそれだからだめなんだ」って言ってるような気がするし、やっぱりコツコツと地道に努力して来たひとが成功しとるんやろなあというアタリマエのことに何度も気付かされてる。そして私はもう手遅れに違いない。

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